行雲流水20・・3.11・・・Vol.252。2015.3.11

30年ばかり前、昭和の終わりごろだった。
私の家族と義姉の家族、義父と義母の合計10人で気仙沼に旅行した。東京はまだ真夏で熱かったが、気仙沼は夏の盛りは過ぎかかっていたような気候・雰囲気だったことを覚えている。

フェリーで大島に渡り、下船した港近くで昼食を取った。
魚も売っているその店の食事はとてもおいしく、義母はその店のフアンになった。旅から帰って、義母は親しくなったその店から年に1~2回ほどだったが、魚を送ってもらうようになった。わが家へも、暮れには必ず義母からおすそ分けがあった。

平成に入って、義母は亡くなったが、気仙沼の魚購入は義姉が引き継いだ。変わらず、わが家へも義姉からおいしい魚が送られてきていた。

大震災のあと、お店とお店の皆さんとは連絡が取れず、安否さえわからなかった。
やっと連絡が取れたのは、もう秋風が吹き始めたころだったろうか。
義姉が「生きていた!消息がわかった。お店は壊滅したが、皆元気だそうだ!」と電話してきた。

それから、お店は再開した。
「この魚とこれこれ、と言われると、まだ応えられない。こちらで、見繕って、取れたものを送るが、それでいいか」とご主人は言っていたそうだ。もちろん義姉は「もちろん!」とひとつ返事でお願いしたと言っていた。
変わらず、わが家にも”おすそわけ”は続いている。
直接、わが家からも購入しようかと悩んだが、義姉の家と気仙沼のお店との長い交流を大切にしようと、お店に想いだけを寄せて、買うのをやめ、相変わらず”おすそわけ”をおいしくいただいている。

先日、知人から「味付け昆布」を大量に頂戴した。
彼は、「気仙沼から送られてきたものだ」言った。
送り主は、知人の友人で、その友人の友達が製造している「味付け昆布」だった。そのまま、ビールのつまみとして、かじっても良し、料理の具にしてもよし、いかように食べてもおいしい昆布だった。

義姉の魚は、気仙沼市田尻にある「魚研」、味付け昆布は気仙沼市西八幡前の「マルニシ」というお店だ。

今、いろいろなことに想いを寄せている。
特に原発事故で、土地を追われた人たちの、無念、悔しさを思うと、つらい。祈りしかできない自分がもどかしい。
久々に長渕剛の怒りの歌、鎮魂歌「愛おしき使者たちよ」を聴いている。
”100年経っても、忘れるんじゃないぞ!”

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宗研が三年間定住支援の地・閖上

名取市閖上。四年前の3.11の一週間後の18日から名取市の閖上地域を中心に三年間、定住して研が活動してきた地域です。三年間を終えた後は、パレスチナのガザ地区に、紛争で傷ついている子どものPTSD予防活動にでかけましたが・・・。

覚えています

これを書いているときも思い出していました。

大島青年団

何年前だろう。やはり20世紀の終わりころです。
眞佐子と気仙沼に行き、現地で哲ちゃんと落ち合い、居酒屋カウンターで飲んでいたら、宴会中の若者たちが
「東京から来たでしょう」
と言うのでどうしてわかったのか聞いたら
「だってポキポキ喋るから」
というので大笑いしました。
「こっちにきて一緒に飲みましょう」
というので三人で合流して大宴会。話を聞いたら大島の若者たちでした。青年団のような仲間の集まりで、話を聞いたら電気屋とか魚屋とかいろんな職業がいました。
「今度、島に遊びに来てください」
と言われ
「行く行く」
と答えたけどそのままになってしまいました。あまりに気持ちの良い青年たちで、すっかり気持ちよく酔っ払い、ホテルまでの帰り道で転んで倒れて哲ちゃんに笑われました。
今でもなにもなくなったあの場所が映るたびにダメです…。

こちらは断章ですが、良い習慣が続いておられるようでよかった。