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霧ケ峰高原、御射山・・・Vol.2557


太古のロマン、悠久の浪漫、といった響きに酔うだけの聞きかじりの域を出ない話だが・・・。
“つわものたちの夢のあと“などと言われると、「へー、かつてここに都があったのか! 城があったのか! 大昔は、人で賑わっていたのか!」などと俄然、胸が躍ってくる。

霧ケ峰高原。
緑の草原に風が渡り、黄色いニッコウキスゲが咲き乱れる。
グライダーが空に浮かぶ。
ビーナスラインが美ケ原まで続くが、子どもの頃は反対運動があったことなど知らなかった。
ただ、高原が好きだった。
八島湿原も湿原として好きだった。

いつのころかただ好きなだけの自然に少しだけ歴史の匂いが加わった。
太古、ここに人がいて、ここらあたりで採れる黒曜石が全国を巡っていたのか!
人の行き来も盛んだったのだろうなあ! と。
そして時代はだいぶ現代近くになってくる鎌倉幕府初めころ、約800年前。
今も御射山の地名が残る“諏訪大社の末社としての旧御射山社”では大々的に祭(神事)が行われていたようだ。コロナ禍の制限ありの昨今のイベントとは違い、武士のみならず地域在住の者も観覧OKだったという天下御免の観覧者無制限の大行事が。

5御射山    信濃奇勝録

『信濃奇勝録』には、祭りの時の桟敷図がある。
祭祀の主催は諏訪大社、来賓として将軍なども見えたようだ。
北条殿、和田殿、千葉殿とある。和田は和田義盛など和田一族、千葉は下総の千葉氏か?
いずれにしろ和田一族は北条義時に敗れ根絶するから、この奇勝録の図は1213年(和田合戦)より前ではないかと思って勝手に今から約800年前とした次第。
桟敷には、信濃侍と甲州侍の席もあったようだ。信濃侍のところには海野、望月、根津とあり、いずれも当時の地元近在(小県・佐久)の豪族で戦国時代までの約300年以上も健在の氏族・滋野三家だ。まだ武田・真田などの名は見えない。「フム、ナルホド」だ。

夏草や 兵どもが 夢の跡 (芭蕉)


令和3年3月24日(水)、午後2時半、晴れ。
藤森栄一『古道』の佐久の古書店から、楽しませてもらった。藤森の旧制諏訪中学のひとつ後輩が新田次郎だ。2人とも自然破壊の恐れありとしてビーナスライン建設には反対の立場だったらしい。むずかしいところだ。
御射山遺跡だが「長径350m、短径250mの円形桟敷野天(野外)会場だった。中央の扇形平地を三方の丘の桟敷から見下ろすように造られていた。東京オリンピック・スタジアムと構造がよく似ていたが、それより横幅が100mばかり勝っていた。桟敷の収容人数は約10万人」と新田次郎は『霧の子孫たち』(1970年刊)に書いている。当然ここに記載の東京五輪は昭和39年の五輪のことだ。
『信濃奇勝録』だが、幕末/天保5年(1834年)に書かれたという。県下をくまなく実地踏査し書き上げた地誌で景勝や奇勝、歴史・動植物に渡り、挿絵もふんだんとあるようだ。著者は、佐久の臼田(うすだ)の神官・井出道貞という。
まだまだアレヤコレヤ浮かんでくるが、古書がらみ・とりあえず佐久の本に戻ったところでひと休み。

T小学校の卒業式、地域などからだれも呼ばないのは子どもも寂しいだろう(?)とかで、きょうもまた、PTA会長(小)と2人で顔を出した。今日の校長は卒業生が修学旅行で行った宇都宮の大谷石の話をした。尖石は縄文中期、御射山遺跡は3万年前からだが、大谷石が形成されたのは「1500万年前」と校長は言った。コロナ禍ゆえ修学旅行は中止のところが多かったが、T小学校は実施したのだった。
*もう100年前、1万年前、などで驚きはしない。想像はあっという間に時空を超えモノリスの前だ。

♪ 旅人よ ♬



今日もご訪問くださってありがとうございました。
From Tokyo With Love 東京Japanより愛をこめて
 では、また明日。



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