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「青天を衝け」渋沢栄一に期待を込めて④・・・番外伝4・慈善事業の時代と青天の彼方へ

恐らく次に書くことは幻となりドラマ化はされないだろう。そう思うと大変に残念だ。
だが、自分自身の放映後の振り返り用「楽しみ備忘メモ」としておく。

★東京府養育院
幾多の組織変更があり、現在は東京都健康長寿医療センター。
明治7年、第一国立銀行総監だった渋沢は、大久保東京府知事から「共有金」の管理を委託される。これは寛政年間に老中松平定信が江戸の町政改革に乗り出した際の「七分積立金」の後身だ。明治維新以後は東京府が管理し各種公益事業を行っており栄一はこれを任された。この公益事業のひとつに養育院の運営があった。栄一は初代院長となり死に至るまで務めた。公正無私

★ハンセン病予防・(多摩)全生病院の開設、博愛社(日本赤十字社)、恩賜財団済生会、救世軍病院、聖路加国際病院、滝乃川学園、福田会、中央慈善協会等々、主な社会事業団体・施設はじめ600以上の事業に関与している。終生貫いて関わったものも多い。

社協:高齢者問題が浮上してからは、社協(社会福祉協議会)を知らない人は今では無くなってきたともいえる。身近な存在になって来た。昔は「写経?」などとも間違われてあまり耳なれなかったものだ。全国の都道府県及び市町村に設置されている。
社協の中央団体が全社協(全国社会福祉協議会)と呼ばれる。発足は明治41年(1908年)で初代会長は渋沢栄一、当時の組織名称は中央慈善協会。昭和6年に亡くなるまで会長職にあった。
渋沢は明治42年に雑誌『慈善』を創刊する。自らが起こした銀行関係者に必須の機関紙『銀行録』が念頭にあったと本人が序文に書いている。「『これを読まない者、慈善(福祉)を語るに能わず』と言われるように『慈善』の編集子及び関係者は励め!」とも書いた。この『慈善』は100年を超えて続き現在は『月刊福祉』として福祉関係者唯一の総合雑誌として愛読されている。

救護法実施促進運動と栄一。
大正時代は、第1次世界大戦後の戦争景気とは裏腹に貧困にあえぐ時代でもあった。米価急騰による米騒動の勃発、むら村の辻には「娘売ります」の看板が立つ。「おしん」の時代でもある。こんな時代を反映して1929年(昭和4年)、救貧制度として救護法が制定公布されるが、国には金がなく実施は難航する。昭和5年に実施すべきと付帯決議が付いていたが昭和6年が迫っても実施の見通しがつかない有様。立ち上がったのが全国の方面委員(現在の民生委員)だ。彼らを中心として「救護法実施期成同盟会」が組織される。何日もかけて手弁当で全国各地から方面委委員たちが東京に集結し国に対して実施を迫るが埒が明かず最後には天皇陛下に上奏を行う。

[シーン1:上奏]:皇居前で救護法実施の上奏を行う方面委員
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当時、方面委員を束ねる中央慈善協会(現在の全国社会福祉協議会)の初代会長だった栄一は風邪をひき床に臥せっていたが病を押して出かけた。行先は緊縮財政内閣の井上準之助大蔵大臣と安達謙蔵内務大臣のところだった。昭和5年11月8日のことだった。以後病床に伏せがちになった。結果勅令で救護法は昭和7年から実施の運びとなることが決定したのは昭和6年3月の帝国議会・閉会直前のこと。

[シーン2:大往生、愛依村荘]
この決定を知り同年(昭和6年)11月11日、渋沢栄一は92歳の生涯を終えた。これが私の期待するラストシーンだ。

[シーン3:余談・東京市外飛鳥山「愛依村荘」]:方面委員(民生委員)の始まりは大正6年に岡山県に創設された済世顧問制度とされる。翌年に大阪に方面委員制度が誕生し名称は違えどあっという間に全国に同様の制度が生まれた。戦後、民生委員制度に統一される。
委員は全国的活動としては中央慈善協会のもとで活動していたが全日本方面委員連盟として組織化されたのは、渋沢が逝った後の昭和7年3月のことだった。昭和6年に渋沢が初代会長になることに決定していたが、渋沢の病と逝去のため発会は延期されていたのだった。
発会式は、昭和7年3月に渋沢の永眠の地であり栄一の愛した別邸「愛依村荘」で会長に清浦圭吾を迎えて行われた。東京市外飛鳥山(東京都北区飛鳥山公園)だった。全国から代表320名が集まった。
なお、渋沢の功績を鑑みて全日本方面委員連盟(全国民生委員児童委員連合会)は初代会長を渋沢栄一としている。

陳情を安達大臣(右)に繰り返す方面委員たち。
11陳情IMG_6466


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全国社会福祉協議会に置かれる栄一の大理石の胸像。渡辺義知画伯、昭和29年作。
(2020.8.28④)(v.2398)

令和2年8月28日(金)、午後4時半。まだ真夏だが気合の入った晩夏の昨日今日だった。
俄学びで恐縮だが、それにしてもおそれいった。偉人・渋沢栄一だった。
社会事業だけでも、箇条書きにしても書ききれない。
大河ドラマの脚本家・大森美香さんは大変だろう。おそらく大衆受けする実業家としての渋沢栄一を描かざるを得ないだろうが、どっこい、大河第2弾は「社会事業家・渋沢栄一」としても十分エンターテイメントとして成り立つ気が今はしている。
大河の続きはないだろうから、せめてどこかのTV局で優秀な脚本家と演出家、若者にも人気がある役者で放映してはくれないだろうか? 製作費はもちろん新札記念で大蔵省・厚労省(後援)持ちだ。祝・脱コロナで内閣府持ちでもいいか。ひょっとして大森さんは大河ドラマより、コチラを描かせた方が秀逸なのではないだろうか?(見ないうちから申し訳ない)。
*渋沢栄一シリーズ①から④に掲載した写真は、顔写真・胸像・方面委員の皇居前上奏風景・娘身売りの看板・安達大臣への陳情写真については『民生委員制度70年史』『全国社会福祉協議会90年通史』からお借りした。それ以外は不肖浮雲が撮影したもの。荒船山の良い写真があったはずだが、探しても見つからなかったので、いつかまた。


今日もご訪問くださってありがとうございました。
From Tokyo With Love 東京より愛をこめて
 長々と失礼しました。では、また。



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