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我是不是我的我・・・Vol.2379


李登輝・台湾元総統が逝去された。98歳。
哀悼の意をダラスに住む周防さんが書いていた。
その中に「私は私でない私」があった。直接に本人の講話をきいたらしい。

俄勉強で勝手に解釈しようとしてみた。
なんとなく禅問答のようであり、哲学的な匂いも感じられたからだ。

老子の言葉だそうだ。キリスト者となった李登輝元総統ゆえ「自己の中に神を宿す」転じて「他者を想う心」「公の為に生きる」という解釈がもっともらしくも思えるがもっと深そうな気がするというところで、とりあえず「よし」とした。
新約聖書「ガラテヤ信徒への手紙」関連で説明する人もあったが、旧約も判らないうちに新約に飛ぶわけにもいかないので止めにした。
相撲が終わったら、マタゾロ聖書がチラついて来た。

東京墨田区に本部を置き静岡や長野でも病院や特別養護老人ホームなどを幅広く展開している「賛育会」という社会福祉法人があり、先般その歴史に少し触れる機会を得た。
昨年の台風19号では、千曲川堤防の決壊により甚大な被害を受けている。
特養・老健など入所5施設とクリニックなど1階部分は全部2m強まで汚水に浸かったといい、法人の長野の全事業が機能停止となった。利用者300人弱は3日間かけて全員無事に避難。
そして今年がコロナ禍に遭遇。
ICD(感染症制御専門医)とICN(感染症制御専門看護師)を置き、従来から感染対策委員会を常設している。昨年度はインフルエンザ等感染症事例はゼロだったという。コロナに対しては即座に危機管理委員会を設置し従前の感染症対策をさらに強化し法人内統一基準などを設けて徹底していると言う。いまだに利用者入所者職員党関係者に感染者は出ていない。
大法人だからできると言ってしまえばそれまでだが、これも日々の地道な努力の結果だろうと驚嘆した。職員数は2100人強だそうだから職員教育だけでも大変だ。皆、志が高くなければ難しい。

法人設立が対象7年(1918年)だから100年を超える歴史を持っている。
「東大YMCA」のメンバーが中心となって創設した。
ちなみに帝国大学学生基督教青年会(東京大学YMCA)の発会は1888年(明治21年)で、この年は旧約聖書全巻和訳が終わり、すでに和訳が完成していた新約聖書と合わせて聖書が日本語で読める記念すべき年だという。

歴代の法人理事長の中には、昔中学校や高校などの教科書に出てきた名前も多く見られる。吉野作造や片山哲などだ。みなYMCA繋がりだ。

法人は昭和初期には大井病院も経営している。日本光学工業(株)の広大な土地を譲り受け昭和19年12月まで開業。“東京大空襲”近しで”建物強制疎開”を受け入れて日本光学に買い戻していただく。
翌年(昭和20年)3月、東京大空襲で賛育会病院・錦糸病院・石島病院・乳児院等全施設が全焼、焼け野原となった。賛育会病院はコンクリートの塊だけが残り、退職職員には2倍の退職金を出した。日本光学への売却代金が役立ったと言う。

この日本光学工業(株)昭和初期の支配人は堀豊太郎だ。賛育会病院長兼大井病院長の河田茂とは東京YMCA会員としていわば同志の仲、熱心な信仰で固く結ばれていた。堀は賛育会の監事も引き受け運営にも深く関与していたと言う。
堀は日本光学の仕事は稼ぎで賛育会の仕事は“この世の務め”が口癖だったとも聞く。

法人は関東大震災で全滅。戦争禍からも不死鳥のように復活。
現11代目理事長の小堀氏は「賛育会クレド(信条・志・約束)は不変」と高らかに謳う。
私は私でない私・・・・。

令和2年8月5日(水)、午後2時半、真夏の太陽が降り注ぐ。
オシロイバナも通り過ぎればそれまでだが、ジッと見ると綺麗だ。

5IMG_6669 4IMG_6661 3お化粧花IMG_6668


今日もご訪問くださってありがとうございました。
From Tokyo With Love 東京より愛をこめて
 では、また。




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コメント

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私は私でない私

李登輝氏は若い頃から、「人間とは何か」、「自己の生き方」を常に探しており、座禅を組んだり、多くの哲学書を読み、その中には宮本武蔵や西田幾多郎、武士道などがあったそうですが、答えがなかなか見つからなかったが、キリスト教に入信して聖書を読むうちに答えを見つけたと思っていると、話されておりました。
「私は私でない私」の解釈は浮雲さんが書かれている、「自己の中に神を宿す」転じて「他者を想う心」「公の為に生きる」との解釈は私も同意するものです。
また、難解な西田哲学(Wikipedia)にある:
***最晩年に示された「絶対矛盾的自己同一」の要旨は、「過去と未来とが現在において互いに否定しあいながらも結びついて、現在から現在へと働いていく」、あるいは、鈴木大拙の「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想)を西洋哲学の中で捉え直した「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。***
この「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」という西田哲学の意味を探求している内に、西洋哲学~聖書へたどり着いて、「私は私でない私」という答えを見つけたのでは、というのが私の考えです。

周防さんへ

ありがとうございました。
おかげさまでコロナ自粛生活も捨てたものじゃなくなりました。
少しだけ自己を深める機会をいただきました!
少しだけで持続できないところが情けないところですが・・・。