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680cc、走ってるかい?・・・Vol.1701


平成7年、オバちゃんが逝った。

「オバちゃん、今は天国で思い切り走っているかい?」「たっぷりタバコを吸ってるかい?」
とオバちゃんの告別式で伊波さんは弔辞で号泣した。
オバちゃんこと調ヨシエさんの告別式だった。
調(しらべ)ヨシエ、社会福祉法人東京コロニーの理事長・調一興の妻だ。元結核患者で片肺、肺活量は680ccだった。この世では思う存分に走ることは出来なかった。コロニーにはそんな片肺の人が多かった。

二人の出会いは昭和44年。伊波さんが東京コロニーの門を叩くことから始まる。

過日、コロニーの入口前の看板が目を引いた。そこには全国コロニー協会(昭和36年、全国の10施設が結集した組織、後にゼンコロ)の組織理念「私たちの誓い」が書かれていた。事務局もここにあった。
~[開拓者の道]私たちは今まで試されたことのない道を自分たちで切り開いていく開拓者です。~その後に[働く喜び][無限の可能性][連帯と協力][生きる権利]と続いていた。
伊波さんは同行者に「ここは何ですか?」と聞く。
「社会福祉施設だよ。ここは主に結核回復者が中心の施設だ」
まだまだ結核回復者が世に受け入れられていたとは言えない偏見と差別があふれていた時代だった。

伊波さんは惹きつけられ徹底的に調べた。「結核とハンセン病の違いはあるが、すでに歩き出していた人たちがいた!」「ここで働きたい!」と、そして東京コロニーの門を叩いた。

伊波さんは「本は好きです!何でもやります!」と担当者に言う。
「うちは印刷業だが、本が好きとは違う、商売だ」と担当者。
「それに、その手はかなり重度ですね。ここでの仕事は無理です」と続けた。

「やはり無理だったか」とトボトボ帰る背後から「ちょっと待って~」と声が飛んできた。
振りかえると小柄な中年女性がゼーゼーと息を切らして追いかけて来た。
「ゴメンね、隣で聞こえてしまったの」と彼女は言う。
「ひどい対応してしまって。明日もう一度来てみてくれない?」「明日は私の夫、所長の調がいるから」と彼女。彼女は涙をいっぱいためて「担当も悪気はないのよ」と言った。

翌日、調所長と会い、就職が決まる。
同じ障害者だといっても一般の人からは差別を受けている結核回復者から見ても、まだまだハンセン病回復者は畏れられもっと違う目で見られていた時代だ。
調の決断が凄い。

その頃の事務所はオソマツで部屋の仕切りも衝立だけだった。そのおかげで一部始終がオバちゃんの耳に届いていた。仕切っていたのは、今も忘れられない「青い衝立」だ。

(オバちゃんが衝立の向こうで聴いていなかったら、自分のその後の“働くという人生”は多分なかった・・・・)。

告別式で伊波さんは「オバちゃん、ありがとう!」「青い衝立、ありがとう」「聞いててくれて、ありがとう」「追いかけてきてくれて、ありがとう」と泣いた。

土手IMG_5756


『花に逢はん』 一部抜粋、一部感想文、のようなものでした。まだまだ紹介したい事柄が本にはたくさん詰まっていますが、ここで一区切りとさせていただきます。関心がおありの方は元本をぜひ。

「追記]
岡山では学業のほか、整形手術とリハビリの連続でもあった。“私は失敗しません“ドクターXとの出会いからだった。Xは橋爪長三医師。1か月以上も毎晩Aの部屋を訪れた。「手術しましょう!」と。「必ず社会復帰できるような手足にします!」とドクターXは言った。社会復帰は夢にも思っていなかったAは、この一言で先生にすべてを託すことを決心したのだった。5年間で12回以上手術を重ねたという。
                      ★
そして高校を卒業し東京にやって来る。多磨全生園に入所。全生園から中央労働学院に通う、昭和42年になっていた。その後、社会福祉法人「東京コロニー」と社団法人「ゼンコロ」の常務理事となり、平成9年に作家となった。


今日もご訪問くださってありがとうございました。 感謝です。
From Tokyo With Love 東京より愛をこめて
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コメント

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No title

神谷美恵子さんをググって凄い人なんですよ~~~!!!!

あおぞらサン、はい

神谷美恵子さん、昭和40年に長島愛生園の精神科医長ですから伊波さんはまだ教室にいた頃です。雲の上の方だったのでしょう。
『花に逢はん』の参考文献に彼女の著作集から「生きがいについて」(みすず書房)を上げていました。岡山所縁の方だったんですね。