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「だんじゅかりゆし」船出歌と別れの歌「散山節」・・・Vol.1697


平成もいよいよあと2か月で終わる。
天皇陛下在位30年記念式典などが催されたり現実味を帯びてきた今日この頃。

1975年(昭和50年)、はじめて現両陛下は沖縄を訪れ、ハンセン病の「沖縄愛楽園」で入所者たちと交流した。別れの時、入所者たちが琉歌・船出歌「だんじゅかりゆし」を涙ながらに歌い感謝を込めて送り出したという。
式典では、天皇陛下作曲、皇后陛下作詞の「歌声の響」が沖縄出身の歌手三浦大知氏によって歌われた。
 
 ♪ だんじょかれよしの歌声の響き 見送る笑顔目にど残る
       だんじょかれよしの歌や湧き上がたん ゆうな咲きゆる島肝に残て ♪ 

奇しくも、この日、沖縄県民投票で「辺野古反対」が7割超と報じられた。
沖縄では、まだ戦争は終わっていない・・・。

じつは私の先輩で、沖縄出身で沖縄愛楽園出身者がいる。
明日、我が子を愛楽園に連れて行かなければならない父親は「ここに座れ」と言い、静かに散山節(さんやまぶし)を歌い出したという。別れの歌だという。
彼は、ハンセン病と診断され烙印を押されて中学時代をこの愛楽園に隔離された。
向学心に燃えていたが、沖縄ではハンセン病者が学べる高校はなかった。中学を出ると勉学に励める場所がなかった。ハンセン病者でも岡山県には学べる高校が出来たそうだ、と、耳にする。

米軍占領下の1960年(昭和35年)、父とふたり、命を懸けて船で沖縄脱出"ヤマトゆき”を決行する。
伝手を頼りパスポートを用意してもらい船に乗った。ハンセン病者とわかれば一巻の終わり、だった。
船上で父は2度強く彼の右腕を掴んで離さなかった
一度目は沖縄本島の島影が見えなくなるまで。
もう一度は那覇丸が鹿児島・錦江湾に入り「もうじき検疫が始まります」という船内放送が流れてきた時だった。

後にその時の父の心境を母が話してくれたそうだ。
父は母に旅立つ前日に「病気がバレたら、その時は息子を連れて海に飛び込む。無事鹿児島に上陸できても受け入れられないかもしれない。何の連絡もなかったら二人を待つことはもうあきらめろヨ。」といい残していたんだそうだ。

後に彼は、某障害者施設の法人の常務理事となり、やがて作家となる。
平成9年に『花に逢はん』と題する本をNHK出版から刊行した。
著者の名前は伊波敏男。

花に逢はんIMG_5729 - コピー

私が出会った頃は、手の指が全部もげていて拳の塊になっていたが、その窪みにタバコを挟んで美味そうに吸っていたものだった。

♪ だんじゅかりゆし ♪


♫ 散山節 ♬



今日もご訪問くださってありがとうございました。 感謝です。
From Tokyo With Love 東京より愛をこめて

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コメント

非公開コメント

No title

岡山のハンセン病施設は長島の愛生園にあります、私の出身は岡山です
キキ希林の映画があんがこのテーマだったと思います


あおぞら39さん

はい。伊破さんは鹿児島に上陸後、岡山の長嶋愛生園に行きます。今はないかもしれませんが、そこで邑久高校に通います。
その後、東京に出て多磨全生園に入ります。
おぞらサンは岡山だったのですね。時には行かれますか?

No title

私は邑久高校の卒業生です
兄が瀬戸内市邑久町におり昨年あいました

邑久高校にも行きましたよ~!!

奇遇

あおぞらさん、たいへんおどろきました!奇遇と言うものですね。
伊破さんは昭和18年の生まれです。
ひょっとして同時期か、あるいは伊破さんが卒業した後に入れ違いくらいで入られたのでしょうかね。
縁というものは不思議です。つくづく書いてみたり話してみたりすることは何かに繋がっていくんだなあと思っています。
ありがとうございました。
ハンセン病者ですから、尾久高校新良田教室に通ったのだそうです。分校のような処だったのでしょうか?

邑久高校

最初は高等女学校から始まっています

新良田教室たしかにありました

同窓会名簿もってます

私は今年古稀ですから、昭和23年4月からの方と同年です24年の早生まれです

まったく奇遇ですね!

創立が平成3年に70周年ですから平成30年で97年ですよね!