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国境の町・・・Vol.1682


かつて住んでいた町・故郷に「国境」という名前の食堂があった。
村境と町境にあったからか、別の意味があったのかはわからない。
小学校の同級生にその店の息子がいて私たちは彼のことを店の名前から「こっきょう」と呼んでいた。客商売からか町の息子の故か、私たち村の洟垂れガキに比べると垢ぬけていた。

同級生には結構あだ名で呼ばれる者が多かった。
体が大きいから「デッカ」、住んでいる地名から「キョウトウ」、酒蔵の息子は造る酒が地元では有名でそのブランド名から「キンチョウ」、私は「カッパ」だった。
泳ぎは得意の方だったが、そこから呼ばれたのではなかった、頭が少し平でカッパの頭のようだったからだと思っている。
当時は校舎内に「オコヅカイさん」家族が住んでいて、その息子・モトオも同級生だった。彼のことは「もっちゃん」ときどき「コヅカイのもっちゃん」と呼んでいた。
呼ばれた方も呼ぶ方も、悪意などは感じたことはなかった。

当然そのことで親が担任に怒鳴り込んで来たなどと言う話も聞いたことはなかった。今思えば単なる符丁で覚えやすく屋号のようなものだったなと懐かしいが、今のご時世では問題になるのかもしれない。
手が不自由な者もいて、時々からかう者もいたが、決まってガキ大将やほかのものが「やめろ」と制止していたものだった。大人が出る前に子ども同士で片が付いていた。
“人は皆平等”とか“今で言う、いじめはいけない”とか“人権意識”とかがあったわけではない、単純に“弱いものをいじめてはならない”という一言に尽きるように思う。子どもなりに、男の子はそれが“おとこらしさ”だなどと思っていた。
もちろん喧嘩もあって時には先生の出番もあったが、家に帰って「先生にぶん殴られた」などと親に言いつけても、親は「お前が悪さをしたんだろ、あたりまえだ!」などと親にまた説教される始末だった。

思えば新米の教師は大変だっただろう。
新米でも先生は先生、親たちからは「先生が間違ったことなどするわけがない」などと圧倒的な信頼を受けていたから、新米先生はたとえ聖人君子でなくても「立派な教師にならなければ・・・」などと(誓って)努力したに違いない。
若い普通の人だった先生も、努力せざるを得ない環境で、そしてやがて名実ともに敬われる先生になって行ったような気がする。
わが師の恩”がまだあった時代だった。

まだ熱が十分冷めていないのかもしれない。寝床でうつらうつらしていると、昔のことなどが思い出される。ひと眠りしようと床に就いたが眠れずに起きてPCに向かった。ブログに今見た夢を忘れないうちに書き終えてから、ポストを見たら「CD在中」の郵便物が届いていた。

オルガニート2019IMG_5688

オルガニート小品集「春」がMMから贈られてきていた。
これでまちがいなく風邪は全快だ!感謝です、ありがとうございます!

今日の1曲は、MMさんの曲の中からといきたいところだが、布団の中で夢うつつに響いていた歌 ♬ 国境の町 ♫ をわすれないうちに。テレビが普及し出す前のことだ。ラジオで聴いたか親が歌っていたのか定かではないが、「国境の町」をいまだに歌える。もちろん学校で教えられたわけではない。



今日もご訪問くださってありがとうございました。 感謝です。
From Tokyo With Love 東京より愛をこめて

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